今、我々は2020年3月を生きている。この3月は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、予定されていた学会が延期になっただけでなく、春の選抜高校野球の中止、大相撲春場所まで無観客開催という事態になっている歴史的な3月である。
厚生労働省が最初に新型コロナウイルス感染症に関する報告をしたのが1月6日。この時点では、「武漢市における原因不明肺炎の発生について」という内容であったが、1月16日には「新型コロナウイルスに関連した肺炎の患者発生について(1例目)」において、国内第1例目の感染例が報告されている。因みに1月20日時点での武漢での発生患者数は198例である。この段階で現在の状況を想像することはできなかったが、1月後の2月20日には国内で70例(チャーター便除く)に拡大し、中国全体では感染者7万人、死亡者数2118人、世界29か国に感染者が発生する事態になった。
このような状況に急変したことにより、政府の対応の如何について批判含めて議論がなされているが、科学的に未解明な中で不明確な情報を基に判断を迫られた状況は、レギュラトリーサイエンスを考える上で恰好の事例と考える。
レギュラトリーサイエンスの定義は「科学技術の成果を人と社会に役立てることを目的に、根拠に基づく的確な予測・評価・判断を行い、科学技術の成果を人と社会との調和の上で最も望ましい姿に調整するための科学」(第4次科学技術基本計画)であるが、後半部分の記載は、まさに不明確な情報、科学的に未解明な状況において、最適解を探す現在の状況と重なる。
人(感染者個人)と社会との調和の上で最も望ましい姿とは何だろうか。新しい技術や医療機器の導入の場合、患者のベネフィットも期待されるため、リスクベネフィットバランスが重視される。しかし感染症のコントロールにおいては不利益の小ささがベネフィットであるため、どちらにしても不利益を享受しないといけない難しさがある。感染が拡大していない状況では、感染していない可能性がある個人の経済活動を制限してまで社会全体のリスクを排除するべきかということを考える必要があるが、感染が拡大した状況においては、感染する可能性が否定できない個人の経済活動を制限してまで社会全体のリスクをコントロールすべきかという議論になってくる。すなわち、感染拡大による不利益の回避、言いかえると、感染コントロールによる社会全体の利益の大きさが大きくなるほど個人の経済活動の制限は大きくなって個人の不利益は増大するため、個人と社会の調和の上で最も望ましい姿に調整する判断の難しさは想像に難くない。現在のように日常生活や社会活動全体に影響が出てくると、感染拡大を防ぐ重要性が身に染みて理解できるため不利益を小さくするメリットを理解できるが、感染当初は不利益が想像できていないことから、小さい不利益でも個人の利益が想像できないため許容できないと思われる。 この状況下での判断に正解はないと思われるが、今回反省すべきところとしては、新興感染症への国民的理解の欠如による想像力不足、科学的理解不足が挙げられる。今こそ、今できる最適解を探すのと同時に、今からでも遅くない感染症への理解向上、科学的理解の向上を進めるべきである。たとえば、PCR検査で陰性という意味、PCR検査の対象を、感染を否定したい対象者まで広げることの科学的妥当性など、検査が万能と信じて疑わない人が少なくない現状は科学的議論の土壌として脆弱であると考える。また、医療政策、公衆衛生行政の基本が感染症対策であることは近年の医療の発展の歴史が示すことであり、再度国民教育として根付かせる必要があるのではないかと考える次第である。