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コロナ禍1年を経過して

東邦大学医療センター大橋病院 :中村 正人
2021.02.18

昨年コロナの蔓延で非常事態宣言が発出されたとき、一年経過すれば日常が戻るのではと漠然と予想していたが、コロナはそれほど甘くはなかった。

承認されたワクチンに大きな期待が寄せられているが、オリンピックの開催はおろか、まだまだ先の見えない状態が続きそうである。

 

さて、コロナ禍が終焉を迎えたのちの社会はどのように変わるのであろうか。この間の行動変容が習慣となるのか?すべてが以前の状態へと回復へ転じるのか?この件に関しては賛否両論相半ばのようである。

一方、識者の間で異論が少ないのはこの間の社会経済の沈滞と相反しての文化の発展である。

飲み会、旅行が減り、経済の発展がなかったのはうなずけるが、文化となると容易には合点がいかない。

 

この1年、webinarでの研究会や会議が増え、ゲームソフトの売り上げが好調、NETFLIXが評判になった。これも文化の発展であろうが、社会学者が指摘したいのは違う側面のようである。

なぜなら、イタリア市民が自宅の窓辺で歌い演奏し、合唱している様子をみて、記憶に残る象徴的な場面として挙げていたからである。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「人間は何も知らないのだ、大事なことは、知識を増やすことではない、自分自身を知ることだ」と話し、浄土真宗開立の粗、蓮如上人は「良い師にであったとき、常々知っている事柄を問いただすのは有意義であるが、知らない事柄を問うのはさほど立派なこととは言えまい」と諭したという。

彼らは、「無知の知」、自分自身は何も知らないことを自覚するべきと教えているのである。

 

時代が近代へ突入し、科学、文明が発展すると「知ること」が求められるようになった。

すなわち、現代人は勝たねばならない強迫観念に追い立てられる競争の社会へと誘われたということだ。経済をはじめ、勝利だけが義務つけられ、成長し続けることがすべての基盤と前提になってきたのである。

しかし、この1年経済の成長は止まった。いや、止められた。成長しない年があることを経験した。成長せねば停滞し腐ってしまったか。むしろ、この成長の停止が、文化の発展の源となったといいたいのであろう。

時間があるからこそ、発展が遅いからこそ各自の創造が生まれ、文化は発展するのであろう。

 

臨床においても「知る」に重きが置かれてきたが、「知る」と「わかる」とは全く違う。我々は、その違いを認識する良い機会になったとコロナ禍を捉えるべきであろう。

物事の「有る」か「無い」かだけを識別し、「知る」ことができたとして大きな満足は得られない。「知る」よりも「わかる」ことが大切であり、「わかる」を追求することに医学の本質があるなどと悟ったような気になった。

コロナ禍による社会変化についての議論をテレビで見ていてふとそんなことを思った。今までが、急ぎすぎていたのかもしれない。

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